▼目次

  1. 長光寺坐禅会
  2. 長光寺の一滴禅堂
  3. 坐禅について

長光寺坐禅会

※坐禅会は休止中です。大変申し訳ございませんが、ご了承ください。

長光寺の一滴禅堂

天地の一滴のしずく、大河の流れの一滴、大海の一滴。すべては一滴の水からなりたっています。

人間としてこの世に生まれたことは、天地の一滴のしずく。

この一滴のしずくを坐禅堂の「一滴禅堂」という名称にいたしました。

そのかみ、こんな問答があります。(「碧巖録」)

法眼禅師に僧問う
「いかなるかこれ、曹源の一滴水」

法眼曰く
「これ曹源の一滴水」

僧惘然として退く。


このわれわれ坐禅を行ずる学人が、曹渓山の流れ、六祖大師の流れを汲む一滴水であるといいます。

道元禅師(曹洞宗永平寺開祖)の言葉にもこうあります。

杓底一残水 流汲千億人 (杓底の一残水 流を汲む千億の人)


遠く源流から流れいでた清流が、途中の小さな流をあわせ大海にそそぎこむ。このことは生命のありようです。

道元禅師は柄杓に使い残され半分の水さえも、また元の清流に戻されたという遺訓は「水はこれ身命なり」ということを示されています。

ただ単に水だけではなく、米の一粒、紙一枚さえもおろそかにしない、この家風こそが、禅仏法の真髄です。

近代は快適な生活を追及する時代になっています。便利になればなるほど、慢性的な精神のかわきを招く症状はなぜでしょうか。

この一滴のこころを継承する坐としたい所存です。

坐禅について

長光寺の一滴禅堂

 

禅の起源を尋ねるならば釈尊以前にさかのぼります。文献でいえばリグベーダ(紀元前1000~1700年)にまでさかのぼることができるといいます。

釈尊はその形式を採用して修道のために活用されました。もちろん内容は新しいものとなり、よって禅の起源としては釈尊からといって良いといえます。

仏教では「戒」「定」「慧」の三学がひとつに融けあって教えの主流となっています。

宗教とくに仏教のめざすところは解脱です。つまり苦の解脱を目的にする単刀直入の実践道が坐禅でなければ宗教の意味がありません。

直接仏心に悟入することを宗派として確立したのが中国禅です。この中国の天道如浄禅師に教えを問うたのが道元禅師(曹洞宗開祖)です。

目まぐるしく変動の多い世界、あふれる情報、複雑化する社会、このような世に生を享けた私たちは多くのストレスに悩まされています。そのような時、坐禅は身体と呼吸と心を整えることにより、過度の緊張感を解きほぐし、安定して活力ある心身へと導いてくれます。

坐禅は本来の自己を知ることから始まります。

限られた自己でなく、絶対の世界にある本来の自己を知ること。そのためには今までの価値観を捨て、自己を空っぽにしなければなりません。

また坐禅は姿勢と呼吸を整えることから始まります。

身体と心を整え、物事への好き嫌いの心、善し悪しを思う心、日ごろのものを比較する心にとらわれず、一瞬一瞬の生命のながれにまかせることが大切です。

坐禅は頭でものを考えることではありません。

人間は誰でも頭で考えます。誰でも自分の考えを持っています。ただそれがいつも正しいかどうか、このことでいつも迷います。

頭で考えるばかりではありません。見る、聞く、嗅ぐ、触れる、これらの感覚によって物事の解決をしようとします。

しかし、これらを超えた解決法、これが行の世界です。

姿勢を正して、左右にぶれないで座る行の世界は黙って真理(法)を行うことです。矛盾をあるがままと観て、現実と調和して一生懸命に生きるという、心の安らぐ世界を与えてくれます。

坐禅は集中力をつけ、過去に経験したこと、あるいは聞き、読んだ本からの知識を整理してくれる直観力を養います。

いつも考えすぎている人。いつも何かを心配している人。気力をなくした人。良い意味での緊張感が少しずつ戻り、生きる活力が湧いてまいります。ぜひ坐禅をしてみませんか。